核と人類は共存できるのか?
なぜなら、言うまでもないが、経験した者にしか解らないことが存在するからだ。世界の人々は日本人の話に耳を傾けるべきである。不安と恐怖を利用する世界平和のやり方には「もう、うんざり」だ。
偉大なアメリカは本当に原爆を使う代わりに何も出来なかったのだろうか?
本当に原爆投下が最悪の選択の中で最善だったのだろうか?
核兵器は善くないとしても、戦争を終わらせる為の核の使用は、原爆のおかげで降伏が早まり、両国とも多大の犠牲者が出ることを回避できたのだから善いとするにせよ、ぜひ一度、原爆正当論者にお聞きしたいことがある。一体何人の犠牲者なら善いのか?1,000人か?10万人か?それとも100万人か?
手っ取り早い解決策があって良かった。どうやら世界の平和は核兵器の数に比例するそうだ。
実際、日本人の多くはきのこ雲の下で孤児になっても米国人を恨まず前向きに生きた物語がある。いつからアメリカ人は罪の意識から向かい合わずに、良心の声に耳を傾けなくなったのだろうか。
日本人は決して原爆の悲劇を忘れた国民ではなく、まして臆病者になり下がった訳でもない。
それは、日本人が恨みや報復を誓ったのではなく、大いなる悲しみを知った国民なのである。
原爆の悲劇を二度と世界に繰り返さない為にも、語り継ぐのが日本人の宿命であり世界に対しての責務である。
最初の広島への原爆の投下は月曜の朝8時過ぎである。原爆の威力が計り知れないために非公開で行われた。
死者の数は15万人以上。自然に恵まれた美しい町は一瞬にして跡形もなく消滅し、影だけが残った。
その場で死んだ人はまだ良い方である。運悪く、その後一週間以内に被爆して死んでいった者たちは悲惨だった。
運悪だと!冗談じゃない!その三日後の午前11時、長崎に原爆が投下された。二発目だ。
エノラ・ゲイを英雄視する理由が私にはダークサイドに見えるが、そうしなければ、良心の呵責に耐えきれないと言うのならば、涙を忍ばせて受け入れたとしても、一度に多くの命を奪う者が英雄とする文化だと言うのなら、意味も解らずに奪われた命から見れば魂を腐らした悪魔の所業であり、どんな正当性があろうとも許しがたい事実であることは未来の子供達がいずれ証明するのは時間の問題だろう。その時、子供たちはアメリカ人を許してくれるだろうか?
仮に原爆が科学の実験だとしても、たしかに科学の進歩は人類に大きく貢献するとしても、一体何人の命を奪えばそう言えるのだろうか?
殺人者は裁かれるが、15万人を殺せば国家プロジェクトと承認されて許される理由がどこにあるのだろうか?
人の命よりも科学が大切なら、世紀の大科学者たちはいったい何をしていたのだろうか。
それが許されるなら、原爆による大量虐殺こそが世界平和だと断言すれば良いのだ。犠牲になったのは極東の小さな島国に暮らすほんの僅かな国民だからだ。
そうでなければ、今後の未来の人類にどう、詫びれば良いのか教えて欲しい。笑って済ませられない事実だからだ。
それはそうとして、因果律に従えば、原爆を落とす者には、原爆がいずれ落とされるように、巡り巡って自らに帰って来る波動方程式のように、日本が原爆を所有しなくても、この法則は覆る事はないだろう。
だとすれば、このカルマを取り除くしか米国には道はないし、「次」はない。
アメリカは日本を助ける事が、同朋を助ける事ではないのか。
覚えておいて欲しい。理由はどうあれ、男性が起こした戦争で、女性や子供たちを殺して天国へ行くことが出来ると本気で信じているなら、もっとやればいい。イエスが罪深い人間をお許しになるなら、もっとやれ。
この世が地獄だから、核兵器が必要などと、「ふざけるな」
「ジーザスよ。どうか世界に平和をもたらしてください。」
「ジーザスよ。どうか核なき世界の実現に力をお貸しください。」
口先だけの平和主義者たちの言い分には、もう、聞き飽きた。