現在の刑罰では犯罪を止められない。
酔っ払いが取るべき二つの道は、狂気と惰眠のどちらかです。
愛すべき惰眠は、いざと言う時に目を覚ますのであれば、自己責任において自己完結していると思えるから、この際、目を閉じるとして、問題なのは狂気の方です。
酔っ払いの凶暴性は大体が思いつきだから、長続きしません。
酔っ払いの犯罪や凶暴性に対して、動機と根拠は必ずしも同一ではなく、別々に異なるものですから、酔っ払いの動機は言い訳に当たります。
酔っ払いがルールを守れないのはお酒が悪いのではなく、人間が未熟だからで、アダルトチルドレンにお酒を与えると暴言を吐くのは子供だからです。
自分自身と折り合いが上手く行っていない人に、他人と上手く行くはずがありませんから。
また、現在の刑罰では犯罪者を生み出しているようにも感じます。
なぜなら、
現在の刑罰には象徴的なシンボルがないからです。
刑罰をイメージ出来なければ犯罪者に伝わらないどころか、犯罪者を止めることなど出来ない。
その為か、犯罪者が誰だか解らない。
犯罪者が赤で、社会が青なら一目瞭然だが、刑罰が犯罪者を野放しにしては、犯罪の連鎖を引き起こしている。
裁判では時間とコストが掛り過ぎるから暴力が手っ取り早く一手段になる。
社会が暴力は無くならないと考えているならそれでも良いが、とても合理的とは言えません。
現代は犯罪が発覚して始めて犯罪となる訳ですが、ここでも捕まらなければ犯罪ではないと言うその考え方に善良な市民は苦しんでいるのです。